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[――いやな、予感がした。
それは大抵が大袈裟な直感で、当たったとしても笑っていられるようなものなのだけれど。
このまま、少女が自身の記憶を取り戻すのが。
はたして良いことなのか?
それを彼女が望んでいるのか?
大事なところに立ち返った気がして、少女を振り返る……前に、手紙狂いに礼を言った。]
ああそう、牛乳に似た果実があれば、採って――
いや、いいか。
気を付けるんだよ。
[危険を承知で、軽く声を掛ける。
自分の用件に関しては、無理を言って果実を採取してもらったところで灰をかぶったそれを食べるのはいやだ、とこじつけて納得しておく。]
[椅子を引き、席に着こうとして――こ、と軽い音を立てて黒い傘が倒れて落ちた。
このままでいるとまた、何もかもを忘れて字の世界に耽溺してしまうことだろう。
その形のまま、男は暫く傘を眺めていた。
逡巡―― 傘を返すか。返さないか。
かつての、他の都市の陥落、その推移を鑑みて。
恐らくはもう、この村もそう長くはない。
今日もまた一人、死の際にいるヒトに出会った――
――ややあって、男は傘を拾い上げた。
無精についたまま残された灰が、ほろほろと部屋で掠れて消えた]
[自室へ戻ると、分厚い台帳を取り出した。
書き込むのは酒場の主人の名前と今日の日付。
其処に綴られるのは男が把握し得る限りの、
人々が生きて死んだ記録]
薬は…足りるかな。
ポラリスの所へ寄らなくてはいけないかもしれない。
[本当は花でも手向けることができれば尚良いのだが。
裏庭に植えた花は芽吹く気配はなく]
―――――…薄紅。
[髪にさすなら、と友人は言った。
彼自身のこととは思えなかった。
誰か大切な人のことを想ってのことだろうか]
[小さく笑みをこぼすと、男は机から何かを取り出した。
それから暫しの作業を経て―――…。
…やがて完成したものを、そっと箱に入れた]
[改めて少女の方を向く。
仕草は軽快であったが、身体の痛みは節々にとどまらなかった。
顔をしかめることは決してせずに、少女に問いかける。]
……アンタさ。
――――記憶が戻ったら、嬉しいかい?
[この灰色の世界で、空から降るものへ対抗しても無駄かもしれない。
少女に関する真実も。
つらく、悲しく、厳しいものかもしれない。
だから、改めて尋ねた。]
[カップの中身を空にすると、わたしはそっと立ち上がります。
それからスーさんの方を向くと、どうしますか、と尋ねるように首を傾けました。
スーさんに意図が伝わるか危ういのですが、手段がこれしかないのだから仕方がありません。
まず、調理場へと歩んでいけば、流しに使ったカップを置きます。
今となっては真水は貴重なものです。
客人としてのわたしが、勝手に使ってはいけない気がしました。
その足で扉の方まで歩めば、ぺこりと一度頭を下げます。
もしスーさんがついて来ていても、わたしは止めなかったでしょう。]
[扉から出れば、フードを被ります。
今度は真っ直ぐに酒場へと向かう道を歩いて行くことにしました。
ただでさえ歩くのが遅いのですから、到着を急ぐ為には最短距離を選ぶ必要があります。
今できることは何か。
とりあえず、暫くは、マスターの酒場を守ってみよう思ったのです。
マスターの大切なものは、わたしにとっても大切なものです。
それに、こんな時だからこそ、憩いの場は必要でしょうから。**]
なんだ、もう帰るのか?
[その場を辞するナデーシュに、そう声をかけはするが、引き留めることはしない。]
明日の朝、準備ができ次第、ドワイトと酒場へ行く。
少しでも穏やかな天気であるよう祈っていてくれ。
[それから、食器の片付けをするために、台所へ向かう。
水はあまり使えないので、余程の汚れでない限りは、布で拭い落とすのだが、その布もだいぶ汚れてきてしまった。]
[ゆっくりしていると、両親との色付いた思い出ばかりが浮かんでくる。
紋様よりも高度な魔法陣の書き方を教わった思い出。
留守を預かる身となった自分に両親が告げた言葉]
おしごと。
…おしごと、がんばれば。
かえってきたとき、いっぱいほめてもらえる。
………でも、おてがみ、こない。
[壊れ始めた後のスーにしては珍しく深刻な表情で、
真面目なことに思いを巡らせ始めていた。
両親が手紙一つ寄越さないことを気にし、
パースに自分宛の手紙が来ていないか訊くのを忘れていたと気付く。
気になる。けれど。
森に近付く意志はすっぽりと抜け落ちていて]
[だから、だろう。
ナデージュがこっちを向いて首を傾げた時、迷わずこう言えたのは]
さかば。ついてって、いい?
パースがまだ、もりにいかないで、のこってるかもしれないから。
[それから、残さず飲み食いした証の、空のカップとお皿を、
調理場へと片付けると]
しさいさまに、ごちそうさまでしたって、いっといて。
じゃあね。
[ひらひらと手を振ると、ナデージュの後をついて歩き始めた。
時折眠そうな顔を見せるのは相変わらず。
パースがいないと分かれば、床に座り込んでうとうとし始めるだろう**]
[布の、少しでも綺麗な箇所を探して食器を拭いていれば、スーも空になった食器を運んできてくれた。]
ありがとう。
分かった、伝えておく。
───気をつけてな。
[ひらひら振られる小さな手に、こちらも緩く手を振り返す。]
[外へ出かける心算でローブを羽織ると、先に礼拝堂へ。
すっかり寂れてしまったオルガン、無残にひび割れた窓。
隙間からは灰が吹き込んでくるから、
此処に長くいることは出来なくなって久しい]
――――――…神よ。
[その言葉を、あまり人前で使うことはなくなった。
かつり、かつりと乾いた足音が空間に響く。
天井には色あせた、ステンドグラス。
星空を舞う天使が彩られたもの。
単純に綺麗な作品だと思っていた。
だけどそれ以上に何か、強く惹かれるものがあった。
これに似た光景を、遠い昔に見たような気がする。
それは少年の頃、
死を目の前にして見た幻想だったのだろうか。
澄んだ澄んだ星空の元、空から降る灰色の―――…]
[ひらり―――…]
[―――ひらり]
[そして男は気が付いた。
夢想でも過去の記憶でもなく、まぎれもなく今、
灰色の羽根が舞い降りてきたことに。
ステンドグラスの欠けた隙間から落ちてきたそれは、
男の足元にふわりと留まる]
……っ。 …!?
[漸く我に返って天井に目を凝らせば、
ステンドガラス越しに蠢く何かの姿がある]
[その影は何処か楽しそうに跳ねるように、
天井の上を横切って行き、そして]
―――――――どん、ぐしゃり。
[見えなくなったと思ったら、大きく歪な音を立てた]
[音がした瞬間に、血の気が引いていくのを感じた。
灰を被ることも厭わず、
正確には其処まで気が回ることすらなく、
教会の外へ飛び出せばすぐに音の正体と対面できた。
壁には血が飛び、地面には血だまりができていた。
その中心で蠢く生物はもはや人の姿を殆ど保っていなかったが、
それでも相手のことを間違える筈はない]
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