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― 一等車両 ―
[小傷の目立つ金の懐中時計を、無造作に投げ上げては片手で受け止めた。ぱし、という乾いた音が室内に響く。]
形見とか言われたって、顔知らねーし。
遺すんならもっとマシなもん遺せってんだ、ったく。
………
[否、屋敷にはもうこの懐中時計しか残されていないのだろう。殆どが処分されたようだと、部屋付きの使用人が語った。
母親――事故で死んだ継母ではなく、生みの母――の持ち物だというそれは、一度とて止まることなく二十数年もの時を刻み続けている。]
― 一等車両・カチューシャのいる部屋 ―
[そして、カチューシャの匂いを辿り、その部屋に獣は入る。
すぐにクローゼットに寄ると爪をその戸にがりりと立てた。]
ガオオオンッ……グルルルル
[クローゼットを揺らしはじめる。
それは明らかな目的のある行為。
少女を襲うという……。]
………何だ?
[はるか遠く、女性の悲鳴。また誰かが死んだのか。
次いで聞こえた獣の咆哮には、扉の向こうを透かし見るように瞳を細め眉根を寄せる。寝台から半身を起こした。]
あーあ。やっぱな…。
案内人一人を喰らっただけであいつらが満足するわきゃない、か。
[近くの廊下に人の集まる気配。
恐怖に慄いたような、悲痛な叫び。
部屋の扉を背に、喧騒の方向へとゆっくりと歩を進めて行く]
っ…。
[目尻に涙を浮かべ、ふるふると。
もしかしたら、昔のことを思い出しているのかも知れません。
まだ、誰も彼もが生きていて。
しあわせで。
そんな、おとぎばなしのようなむかしむかしの話を。
まるで、走馬燈のように。]
[ちょうど、クローゼットの扉が破れた時だった。
カチューシャの鳴き声が見えた時、
その行為に、追いかけてきたロランの銃が火を噴く。
轟音とともにそれは客室の壁に刺さるだろう。]
――………グルルル
[明らかな敵意の攻撃に獣は動きを止め、振り返る。]
― 一等車両 ―
[血と肉に、酔ったような唸りと煌々とした紅い眸、
黒い毛並みから“獲物”の体液を滴らせながら、獣が動く。
それは わるいゆめ のように絶望的で]
……ミハイル、ッ…
[押し殺す小さな呟きは掠れる、
それを聞き取れた者がいたかどうかはわからない。
火器は、比較的小さなものだったけれど、それでも柔らかな手に余る。
陶然とその光景を見つめていたサーシャが視界に入れば、黒い瞳は一層悲痛に歪んだけれど。両手に鈍い輝きを手に、彼の後を追う]
[黒い獣がクローゼットを揺らしている、
動きは激しいわけではないのに、狙いは上手く定まらない。
銃の扱いに慣れているわけではないのだ、その中に誰かがいるのだとしたら、]
――……ッ、
[トリガーを弾けば威嚇のような一撃、
細い身体は、反動を受け止めきれずに弾道がぶれた]
[黒くて大きい獣が、ミハイルと呼ばれるのをどこか他人事のように聞いています。
ミハイルおじさんと、ローラお兄さんは、とても仲が良さそうでした。
それなのに今は、武器を向けて。
とても悲しそうに。
訳もわからず、張り裂けそうになります。
一体自分は、どうなるのでしょうか。一体二人は、どうなるのでしょうか。少女はただ、黒い獣の赤い瞳をじっと見上げるだけです。]
[次射に備えて、ハンマーを起こす。
今度は、反動に備えてじりと脚の感覚を広げる。
照準を構えれば、その背後に少女の金色の髪が覗いた]
――はやく、逃げて。
[眼差しは振り返った獣の紅い眸を見据えたまま、
荒い呼吸に上下する肩とは裏腹に、
黒い瞳は哀しいほどにその静寂を取り戻していて]
ガオオオンッ!!
[銃に獣の怒りがあふれてくる。
カチューシャは逃げ出しただろうか。
歩みはロランのほうへ。
銃など怖くないとばかりに、あえて近づいていく。
紅い眼は、もう完全に化け物の領域。]
[獣が、シュテファンの身体を喰らう。筋肉をぶちぶちと千切り、鮮やかな内臓から血を溢れさせ。
血の臭いは部屋中に溢れかえり、呼吸のたび澱のように肺にたまる。人の身にそれが甘いはずもないのに。うっとりと獣を見つめている。だが。]
ろらん、やめて!
[ロランが持つ物に気づけば。彼を止めようと、慌て手を伸ばした。……弾の早さにかなうはずもないのに。]
っ! ロラン、やめて、お願い!
[倒れたロランを取り押さえようと。押し倒そうと。細い腕が伸ばされた。]
[はやく逃げて。
その言葉によろよろと立ち上がり、半分壊れたクローゼットの中からはい出します。
出口に向かい、とてとてと歩きだし、ぽけっと転んでしまいました。元より怪我をしていた膝をすりむいて、かさぶたが剥がれてとても痛そう。
こんな事態に、腰が抜けてしまったのでしょうか?それでも、全力で駆け出さないともっと痛いことになるのでしょうが。]
[照準を構えていれば、
唐突に横から伸ばされてくる腕に邪魔をされる]
――……サーシャ、 ッ、
[少しばかり、もみ合いのようになれば、
彼が怪我を負っているとはいえ、やはり男女の差はあっただろう。押されれば足元はぐらついて、けれど銃を手から離すわけにはいかない。]
君は…、――…ッ
君は、獣の悲しみを考えたことがあるか……!
[喰らわれることを願う彼へ、
そんな叫びは零れて、邪魔する腕を振り払おうと肘に力を込める]
[四つ足ではっていく姿は、イモムシよりも遅く。
人狼からしたら、まるで誘っているかのように見えるかも知れません。
当人からしたら、必死なのでしょうけれど。]
[シュテファンの部屋の方向に向かう。彼の部屋からは明らかな死の色が漂っていた。中を見ずとも、どのような状況であるのかは想像に難くない。
それよりも。]
な………!?
[乗客の隙間からシャノアールの部屋を覗き込むと、その双眸が見開かれる。
黒々とした獣が、部屋に居る。人間を喰らったばかりなのか、獣の毛から滴る血液は紅く、まだ新しいものに見えた。]
悲しみ……?
[わからない。獣と悲しみ、結びつかない言葉。
だって、狼はいつだって強くて。強大で。その爪に、その牙にかなうものなんていなくて。]
わかんない、わかんないわかんないやだっ!!
[どこから言葉に出来ていただろう。狼に褒めてもらいたいと、それだけで動く幼い精神は、ロランの言葉の理解を拒絶する。]
おおかみさまが、いたいの、やだ!!
[かろうじて出た対話らしき言葉は、そんな単純なもの。
振り払われようと、大きな声で怒鳴られようと、ただがむしゃらに銃へと手を伸ばす。]
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