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[いまは亡き、ヴァイイ伯の居城。
ロネヴェは門前で騎乗の足を止めさせ、首に凭れた。
館に、その主の居る気配は無い。
単に外出しているといった風でも無く、長らく主を持たない空虚さがあった。
門扉のまえに、石版が突き立っていた。
青白い、稲妻のような光で、石版に文字が刻んである。
後継者”候補”とされている者の名だ。
ロネヴェはそれらを眺め、一つずつ確かめ、あくまで優美に唇の両端を*つり上げた。*]
[湖面の漣に気付いておらぬ気に、快活な笑い声を上げて立ち上がる。]
お堅いんですね、貴方は。
網を張って待ち受ける蜘蛛の誘いには乗らぬと思っているのか……
[そこで一度言葉を切り]
……それともうぶなのか。
[そう言って浮かべた笑みは、これまでと全く異なるふてぶてしい男臭い嗤いだった。]
[突然上がった笑い声に
些か面食らったように瞬きを2度。]
……それと分かっていて飛び込むほど
物好きではないのでな。
[続いた言葉には]
……。
[少しばかり憮然とした表情になる。
先程とは全く違った笑みを浮かべる眼の前の魔を見据えた。]
[候補者の名が列記された石版の最上部には、一般に魔王と呼ばれる、悪魔、魔物達の王、名を呼ぶ事も憚られる魔界の王の捺印がある。
これは、勅令。
此処に記してある者共の間で領地を争えという令。
細かなルールなどは無論、存在しない。
殺し、奪う。背き、欺く。]
[草を踏んで、一歩近付く。
腕を組むと、盾のような胸に張り付いた小ぶりな乳房が、薄絹に包まれて一層盛り上がりが強調される。
ふふ、と鼻を鳴らし、低い声で囁いた。]
色事はお好きではないようだな?
取って食いはせぬものを。
[距離を少しばかり縮められたが、
ウェスペルはその場に佇んだまま。
囁きに暫し眼を閉じ、再び開く。]
興味がないだけだ。
……信用ならん。
[媚の乗った笑みを思い起こしてか、
やや低い声で付け加えた。]
[ロネヴェは魔物の背を滑り降りた。
ヴァイイ伯の館の前には、庭が広がっている。
とはいえ木々のひとつも無く、錐のように鋭利な岩が天を指して無数に立つ、荒涼とした庭である。
岩は影を落とし、影は大地に美しい幾何学模様を描いていた。]
……そんな所へ居ないで出てらっしゃい。
[実に愉快そうにまた声を立てて嗤った。]
信用など。
快楽はともに分かち合うもの……貴方がよき弾き手ならば己(おれ)は騙しはせぬよ。
しかし……
どうも貴方はそうではないらしい。
[最後はちくりと揶揄の棘を含んで*見詰めた。*]
[庭へ広がる影のタペストリー、模様の一片が歪む。
岩陰に身を潜めていたものの影が現れ、美しい紋様に無意味な一角を加えた。影の主へ、ロネヴェは語りかける。]
ボティス。
いま、あなたの名前を見たわ。
[ゆったりと腕を組み、悠然とした足取りでロネヴェは影の庭へ。
挑発的な目線を送る。]
可哀想に。今すぐそこへ跪くのなら、慈悲くらいはくれてやっても良いのよ?
[ボティスと呼ばれた悪魔は、翼を広げた。
金属の擦れ合う音が響く。翼は羽毛ではなく刃で出来ていた。
ロネヴェへ見せ付けるように一度、二度、大きく翼を羽ばたかせ、ボティスは飛び去る。]
攻撃の意思表示をするだけなんて、とんだ腰抜け。
[ロネヴェは首の後ろへ手を入れ、髪をかきあげた。
候補者を追うでも無く、庭の散策をはじめる。岩の影々で、他の候補者のものか、使い魔のような小さなものが蠢いていることを感じながら。]
―湖畔にて―
―――……
[僅かに眉を寄せる。]
知ったことか。
好みの弾き手と戯れて居ればよかろう。
[黒衣の裾を翻して、背を向ける。
見えぬ階段に足をかけて馬車へと行く。
扉に手をかける前、肩越しに少しばかり振り帰ったとき、
やはり、うつくしい魔は薄く笑みを浮かべているだろうか。]
――失礼する。
[馬車は再び、空を滑る。
ヴァイイ伯の屋敷の方角へと。]
[過ぎ去る雲を見るともなしに眺めていた。
程なく、規則正しい模様を描く陰が見えてくる。]
ふむ。
[手で硝子の御者に制止を促して、
馬車の扉を開くと風がウェスペルの髪をなぶる。
灯された明かりに毛先が金色に透けた。]
(――既に集まり始めているか)
[見えない階段を降りきれば、聳え立つ屋敷は眼前だ。
石版を見上げると、確かに刻まれた名前。
今度は槍の魔物の名前には動じなかったものの]
……む。
[“ロネヴェ”
それを眼にするなり、何ともいえない表情を浮かべ
眉を寄せた。]
[大きな影が、頭上を過ぎる。
ひとつ、岩の周りを回り屋敷の入り口を伺う。
門前に佇むウェスペルの姿を見付けたロネヴェは、愉しげに縁だ。そっと彼に近付く。]
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